グローバル転職NAVI

キービジュアル キービジュアル

タカシの外資系物語

告白! “タカシ復活” までの 道程 (その3)2013.10.15

    みなさんのメッセージに、感謝!!!

    (前回の続き) まず最初に、お礼から。コラム再開以来、多数の読者のみなさんから、励ましのメッセージを頂戴しました。本当にありがとうございます! 私にとっては、読者のみなさんからのお言葉が、最高のモチベーションUPにつながっています!! これからも、叱咤激励含め、ご指導いただけると嬉しいです!!!


    次に、本論に入る前に、コラムの記述内容について、補足説明をします。前々回のコラムで、私の銀行員時代のエピソードをお話しました。大蔵省(当時)検査の際に、資料をシュレッダーした等々の話です。つい最近、某銀行で暴力団への融資について、金融庁に虚偽の報告をしたことが大問題になっているニュース、みなさんもご存知かと思います。「タカシがやったことも、それと同様に、ヤバいんじゃないの?」と、思っている方もいらっしゃるのでは?それについて、ちょっと説明(弁明)をしておきます。


    金融当局(金融庁や日銀)が 指示・依頼した事柄 について、虚偽の説明をしたり、資料を隠匿したりすることを、「検査忌避」といいます。検査忌避は、NGです。場合によっては、業務改善命令等の罰則が下されたり、悪質な場合は、当該個人が処罰されることもありえます。


    一方、私がやったのは、それとはちょっと違いまして、検査に使用されるかもしれない(されないかもしれない、その時点ではわからない)資料を、事前に “整理整頓” しただけです。問われたことにウソをついたわけでも、隠したわけでもありません。実際に、当時の検査において、ウソもついていませんし、逃げも隠れもしていません。問題なく対応をしました。ですので、犯罪を犯しているのではないかというのは全くの杞憂ですので、誤解なきよう(蛇足ですが、私が勤めていた銀行は、その後、破綻・国有化されました。元上司だった方数名は、粉飾決算の疑いで、逮捕されました。が、どなたも無罪が確定しています)


    さて、前回の続きです。持病の狭心症かと思いきや、強度の適応障害=うつ と診断され、強制的に入院させられた私。どのような経過をたどったのでしょうか?

    I can’t stop the tears ・・・

    ・4月 ~ 5月中旬 
    まず、入院して半月ほどのことは、自分でもほとんど覚えていません。半狂乱になって泣き叫ぶような症状ではないので、傍目には落ち着いているように見えるのですが、奥さんによると、常に小刻みに震えていて、「この人、もしかしたら、ホントに死ぬんじゃないか?」と真面目に心配していたそうです(トモミ、ごめんね・・・)。

     


    私の頭の中にあったのは、依然として、残してきた仕事のこと。残務については、上司とある信頼できる部下に全てを任せたのですが、やはり心配です。前回のコラムで、主治医の先生から、「あなたがいなくても、会社は絶対に潰れない。でも、あなたがいなくなったら、奥さんやお子さんはどうするんですか?!」 と叱責に近い説得を受けたわけですが、そりゃそうなんです。そんなこと、わかっています。私がいる or いない、会社が潰れる or 潰れない、そんな極端な話ではなくて、一週間単位、いや今日・明日の仕事がうまく回っているか、気になって仕方がない。弊社は完全ペーパーレスで仕事をしていますので、あらゆる処理は “ワークフロー” (処理を標準化し、システム上でプロセスを進める仕組み。当然、ペーパーレスであり、印鑑レスであり、PCさえあれば、どこにいても仕事ができるようになっている) で進められます。私が押す 「Approve(承認)ボタン」 をトリガーに、次の工程が動き出す。多数の人が、私がボタンをポチッと押すのを待っているわけです。仕事の大半は、スマホ(私の場合、仕事ではBlackBerryを使っています)でも処理可能なので、病室で寝ていても、多くの仕事ができるわけです。


    「奈良さん、まさか、仕事のことを考えているんじゃないでしょうね? お願いですから、全てを忘れて、一度リセットしてください。でないと、治療が “スタート” できないんです!」


    主治医の先生は、こんなことを言っていたように思います(“スタート” の意味については、後述します)。


    一方で、この2ヶ月間、起きている時間の8割以上、私は常に、涙を流していました(『いなかっぺ大将』 風大左衛門の 「どぼちて、どぼちて・・・」ぐらいの涙の量でした・・・。わからない人は、45歳以上の人に聞いてください。もうちょっとカッコよく言うと、杏里の『悲しみが止まらない』ですね。カッコよく言う必要は全くありませんが・・・)。


    私の認識としては、前回お話した黒いドロっとした涙(もちろん、リアルには、本当の涙なんですよ)。みんな徹夜で働いているのに、一人病院でサボっている自分、仕事を止めている自分、奥さんに心配をかけている自分、娘と遊んでやれない自分・・・ どれもこれも、何もかもが悲しくて、泣くしかないのです。そのうち、押さえていた嗚咽が止まらなくなり、発作状態でパニックになると、先生が来て、精神安定剤を打つ・・・、そんなことを繰り返していました。


    入院して1ヶ月すると、ゴールデンウィークになりました。娘の幼稚園も休みになるので、主治医と相談の結果、連休中は一時帰宅をすることにしました。


    久しぶりの我が家、家内の実家から、義理の両親や兄が来て、娘と遊んでくれました。私は寝室に伏したままでしたが、娘の笑い声が聞こえると、涙を流し嗚咽しながら、笑顔になる自分がいました。本当に、家族は「宝物」です。


    しかし、しばらくすると、家族みんなの笑い声が、私の黒いドロっとした涙 を加速させ、どうにもコントロールができなくなってきたのです。結果、私はどんな行動を取ったか? 娘と遊んでいる義理の両親や兄の前に仁王立ちになって、「さっきから、うるさいっ! 早く帰ってくれ!!」と泣き叫んでいたそうです。もう、どうにもできませんでした。


    そんな私を、義理の両親と兄は、温かく見守ってくれました。見送りに出たマンションの玄関で、義理の母が奥さんに、言ったそうです。「ゆっくり、ゆっくりと、治せばいいからね・・・」 本当に、本当に、ごめんなさい・・・

    入院後2ヶ月・・・やっと “スタート” ?!

    ・ 5月下旬 
    連休が終わると、私は再度、転がるように病院に戻り、再入院しました。連休前と同様に、泣いて、泣いて、嗚咽が頂点に達したら、安定剤を打つ・・・ 毎日その繰り返しでした。


    再入院して1週間たった頃だったと思います。少しだけ、症状に改善が見られるようになってきました。夜9時に寝て、朝6時に起きられるようになってきたのです。ま、自力で寝ているわけではなくて、睡眠薬と睡眠導入剤をフル投入して寝ているだけなんですけどね。 
    それまでは、睡眠薬系の薬が全く合わず、3日間眠れない日が続いたかと思えば、次の3日間は寝っぱなし、みたいな睡眠サイクルだったので、「毎日、夜9時に寝て、朝6時に起きる」というのは、画期的なことでした。


    5月末に近くなった頃、主治医の先生がやって来て、次のように告げました。 
    主治医 「奈良さん、やっと 飲むべき “薬” がわかりましたね。ここからが、治療の “スタート” です。とりあえず、6月から3ヶ月間、8月末までということで、診断書を再発行しますから、会社への連絡をお願いします・・・」 
    私 「は、はぁ・・・(おいおい、3ヶ月で治してくれるんとちゃうんかーーーーーっ! どんどん、休職期間が延びとるぞーーーーーーーーーーっ!!)」


    適応障害(うつ)をはじめ、精神性疾患というのは、手術して治るもんではありません。また、症状に対して、直接的に効果があって、自発的に症状を緩和してくれる薬や療法も存在しません。 

    要は、「朝起きる → 食事を摂る → (泣き崩れたり、叫んだりせずに)普通に起きていられる → 夜寝る」 という、普通の生活リズムを、“薬” の力を借りて無理やり作り、その段階を “スタート” とします。そして、長時間かけて、“薬” を抜いていく。長時間というのは、数年のタームです。で、抜け切れば、完治。こういう仕組みになっているのです。


    私の場合、睡眠薬と睡眠導入剤を3種類、抗うつ剤を2種類飲んでいました(今は、抗うつ剤は1種類に減りました)。これら5種類の “薬” を、それこそ30分単位で時間をスライドさせて、量も変えながら飲むわけです。何時何分に、どの薬を何錠飲めば、朝起きて夜寝れるのか、そのタイミングと量が判明するのに、2ヶ月を費やしたわけで、ここからが “スタート”、本当の戦いが始まるということになります。


    というわけで、6月1日に、退院して自宅に戻り、週1回の通院治療に変わりました。その後、主治医も 「こんな症例は経験がない」 というほど、驚異的な回復を見せるのですが、その裏では、私たち家族にとって、胸を引き裂かれるような大事件が起きるのです。続きは次回お話します。


    (追伸) このテーマでずっと書いていると、「外資系物語」ではなくなってくるので、5-6回続けて、いったんクローズします。従来の外資系コラムを期待されている皆様、今少しお待ちくださいね! 

    (次回へ続く)

    • このエントリーをはてなブックマークに追加

    外資・グローバル企業の求人1万件以上。今すぐ検索!

    この記事の筆者

    奈良タカシ

    1968年7月 奈良県生まれ。

    大学卒業後、某大手銀行に入行したものの、「愛想が悪く、顔がこわい」という理由から、お客様と接する仕事に就かせてもらえず、銀行システム部門のエンジニアとして社会人生活スタート。その後、マーケット部門に異動。金利デリバティブのトレーダーとして、外資系銀行への出向も経験。銀行の海外撤退に伴い退職し、外資系コンサルティング会社に入社。10年前に同業のライバル企業に転職し、現在に至る ( 外資系2社目 )。肩書きは、パートナー(役員クラス)。 昨年、うつ病にて半年の休職に至るも、奇跡の復活を遂げる。

    みなさん、こんにちは ! 奈良タカシです。あさ出版より『外資流 ! 「タカシの外資系物語」』という本が出版されています。
    出版のお話をいただいた当初は、ダイジョブのコラムを編集して掲載すればいいんだろう ・・・ などと安易に考えていたのですが、編集のご担当がそりゃもう厳しい方でして、「半分以上は書き下ろしじゃ ! 」なんて条件が出されたものですから、ヒィヒィ泣きながら(T-T)執筆していました。
    結果的には、半分が書き下ろし、すでにコラムとして発表している残りの分についても、発表後にいただいた意見や質問を踏まえ、大幅に加筆・修正しています。 ま、そんな苦労 ( ? ) の甲斐あって、外資系企業に対する自分の考え方を体系化できたと満足しています。

    書店にてお手にとっていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
    奈良タカシ

    合わせて読みたい

    ---