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ミャンマー(ビルマ)

日本時間の3月28日(金)午後、大地震に襲われたミャンマー(Myanmar)では、日曜もM5規模の余震が起きたようですが、Xやインスタでは各地から現地の人が被害の様子を投稿しています。軍政は非常事態を宣言し、国際支援を要請する中、震源地の近くで反政府の民主派組織に対する空爆を続けているそうです。

私は2020年2月にミャンマーを訪れたのですが、当時、コロナ禍勃発直後で、コロナ関連のことばかり書いていて、ミャンマーについて書きそびれました。ヤンゴンのショッピングモールの入口では検温が行われ、寺院でもマスクが配布され、外国人観光客には着用が義務付けられていました(中国人観光客の宿泊を断わる宿泊施設も)。が、コロナ禍は、まだ深刻化しておらず、市民は普通の生活をしていました。それが一年も経たない間に、政変で急変しようとは、現地の人も予想だにしていなかったでしょう。

軍事クーデター前

5年前、今回の地震の震源地に近いマンダレー(Mandalay)も訪れました。ミャンマー第二の都市は、ミャンマーの中部に位置し、今回、1000キロ以上も離れたバンコクでビルが倒壊したのは衝撃です。(日本でいえば、大阪が震源の地震で青森のビルが倒壊したようなもの。)

なお、バンコクのビル崩壊で被害に遭った作業員らも、ミャンマーを含む近隣国からの出稼ぎ労働者です。

マンダレーは、最後の王朝が栄えた古都で、私は王宮の近くに泊まり、自転車で観光しました(空気が悪く、滞在2日目から喉の痛みと咳に悩まされた。)が、私がミャンマーで一番感激したのは、世界遺産のバガン(Bagan)でした。アンコールワットとボロブドゥーブ(インドネシア)と並ぶ世界三大仏教遺跡のひとつですが、私は3つのうち、バガン遺跡群が一番気に入りました。 

バガンはマンダレーから南西に200キロほどなので、当地も地震の被害が出ています。2016年の地震(M6.8)でも、複数の遺跡が破損しました。1975年のバガンが震源地の地震(M6.8)では、被害は、さらに大きかったです。

ミャンマーの人は穏やかで、料理もおいしく(麺料理が多く、中華っぽいのも)気に入ったので、2021年以降毎年訪れようと、ヤンゴンで長期滞在できる民泊マンションにも目星をつけていました。

ところが、コロナで鎖国となり、2021年には軍事クーデター(military coup)が起こったため、「もう二度とミャンマーには行けそうにない」とあきらめていました。しかし、戦闘地域を除けば現地の人は普通に暮らしているようで、観光は可能で日本からのツアーもあるようです。

多民族多宗教国家

ミャンマーの首都はネピドー(Naypyidaw)ですが、最大の都市はヤンゴン(旧名ラングーン)で、2005年に軍政が遷都するまで首都でした。

ミャンマーは、7割のビルマ族と少数民族から成る多民族国家です。2017年には、ロヒンギャ迫害で70万人以上が隣国バングラデッシュに避難し、政府は世界的に批判を受けました。クーデター後は忘れられた感がありますが、今も100万人以上のロヒンギャ難民がバングラデッシュで暮らしています。

国民の7割以上が仏教徒ですが、多宗教国家でもあります。ミャンマーの公用語はビルマ語ですが、元イギリス領であったためか、英語を話せる人が多かったです。

1人当たりのGNI(国民総所得)は1230ドルで、アジアではアフガニスタンに次いで貧しい国です。

内戦とクーデターの歴史

国名が軍政によってビルマ(Burma)からミャンマーに改名されたのは、1989年のことです。

ビルマは19世紀にイギリスとの3度の戦争で敗北し、イギリス領インドに併合され、イギリスの植民地となりました。第一次世界大戦中に独立運動が始まり、第二次世界大戦勃発後、アウンサンスーチー元国家顧問の父親で「ビルマ建国の父」と呼ばれるアウンサン将軍がビルマ独立義勇団を率い、日本軍と共闘してイギリス軍を駆逐しました。(その後、イギリス軍側に寝返って抗日。)

1943年には(日本軍の支配下で)ビルマ国を建国しましたが、日本の敗戦で再度イギリスの統治下に置かれました。1948年に独立したものの、3ヵ月後には、少数民族による内戦が起こりました(中国とインドをけん制するために民族対立を起こすのがイギリスの戦略だった)。何年も内戦が続いた後、1962年の軍事クーデターで、軍政が始まりました。

軍政下で大半が国営化され国の経済は発展せず、アジア最貧国のひとつとなってしまいました。国民の不満は高まり、1988年に全国規模の民主化運動(8888 Uprising)が起こりましたが、再び軍事クーデターによって、何千人もの国民が銃殺されて鎮圧されました。

1990年に、30年ぶりに選挙が行われ、アウンサンスーチーが率いる党が勝利したものの、軍は政権譲渡を拒否し軍政が続きます。2007年に再度大規模な民主化デモが起こりましたが、やはり武力で鎮圧され、日本人ジャーナリストを含む死傷者が出ました。

事実上の鎖国状態が20年以上続いた後、2011年にやっと開国し、民主化、経済発展が進むものと世界は期待しました。未開拓の市場を狙い、日本を含み各国から企業が進出しました。私の知り合いのアメリカ人弁護士も、アメリカ企業の進出支援で現地で拠点を構えましたが、クーデターで当時の投資はすべて無駄に…

1989年から14年以上も軍政によって自宅に軟禁(house arrest)状態であったアウンサンスーチー元国家顧問は今年80歳になりますが、2021年から他の政治犯とともに投獄されています。(1991年にはノーベル平和賞も受賞し、一時は時の人だったが、若い世代は知らないのだろうな…)

日本とのつながり

アウンサン将軍もバーモウ元首も、一時日本に逃れるなど、昔から日本とのつながりは深いミャンマーですが、日本政府は1970年から80年代にかけて5000円億円超のODA(政府開発援助)を供与し、軍政とも良好な関係を築きました。その後、軍政による民主化運動の弾圧で日本からのODAも大幅に減ったのですが、2021年の軍事クーデター以降も供与を続けたことで、「軍に資金を提供している」と世界的に批判を浴びました。

クーデター後、多くのミャンマー人が国外へ脱出しており、日本にやってくる人も増えています。昨年から(男女とも)2年の兵役が課せられ、若者の国外脱出に拍車がかかりました。*(が、現在、兵役年齢の男性の出国は難しくなっている。)  

在留ミャンマー人の数は、過去二年で倍増し、今では13万人以上が日本で暮らしています(国別では8番目)。一番多いのが高度スキル人材向け技人国ビザ、その次に特定技能資格での滞在です。

私も、大阪でお寿司を握っているミャンマーの若者と出会ったことがありますが、「今は国には帰れない」と言っていました(帰ったら徴兵される。反政府活動をしていた人は、軍人として、以前の仲間を相手に戦わなくてはいけない。)

* 「若者」といっても、男子は35歳まで兵役義務あり。医者などの専門職に至っては45歳までで、かつ三年。
クーデター後、若者は勉学の機会を失い、卒業しても就職できず、これだけ若い芽を摘んで、今後、どうやって国を発展させるつもりなのか。

有元美津世

大学卒業後、外資系企業勤務を経て渡米。MBA取得後、16年にわたり日米企業間の戦略提携コンサルティング業を営む。社員採用の経験を基に経営者、採用者の視点で就活アドバイス。現在は投資家として、投資家希望者のメンタリングを通じ、資産形成、人生設計を視野に入れたキャリアアドバイスも提供。在米30年の後、東南アジアをノマド中。訪問した国は70ヵ国以上。
著書に『英文履歴書の書き方Ver.3.0』『面接の英語』『プレゼンの英語』『ビジネスに対応 英語でソーシャルメディア』『英語でTwitter!』(ジャパンタイムズ)、『ロジカル・イングリッシュ』(ダイヤモンド)、『英語でもっとSNS!どんどん書き込む英語表現』(語研)など30冊。

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