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タカシの外資系物語

H 部長との思い出 ( その 3 )2004.04.16

前回の続き ) 久しぶりに H 部長と行った居酒屋でのこと。H 部長は私に対して、とんでもない言葉を発したのです。


H 部長 「タカシさん、うちの銀行を、辞めてくれませんか ?」


にゃ、にゃんですとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぉおおお !


私は気が動転して、卒倒しそうになりました。「冗談だろ、おい …… 冗談に決まってる ……」 私はおそるおそる H 部長の顔を見てみました。しかし、H 部長は真剣な顔のままです。


タカシ 「ぶ、部長 …… どうして私が会社を辞めなきゃならないんですか ……」


H 部長は少しため息をついて、意を決したように話し始めました。


H 部長 「タカシさん、この話はここだけにしてくださいね。実は、うちの銀行は、あと 1 年もたないと思います。理由は世間で言われている通り …… いや、もっと深刻な事態なんですが ……」


私が所属していた銀行は、その当時、強烈な信用不安の嵐を受けていました。つまり、巨額の不良債権に堪えられなくなって、早晩つぶれるだろうという噂が、あちこちで囁かれていたのです。実際にその半年ほど前に大手の都市銀行が破綻していたので、すでに「銀行は倒産しない」という神話は過去のものになっていました。それはまるで中世の魔女狩りのように、「次はどこだ ? あの銀行か ?」と大騒ぎをしていたのです。


私はマーケット部門にいましたから、その影響をモロに受けていました。なぜなら、顧客が取引に応じてくれないのです。「おたくの銀行危ないって、みんな言ってるよ。今にも潰れそうな銀行と取引なんてできないよ !」


しかし、私をはじめ多くの行員は、心のどこかで「何とかなる。いざとなったら、大蔵省や日銀が助けてくれる」と信じていました。実際に、当時の会長と頭取は、それぞれ大蔵省と日銀から招聘した実力者でした。それは、「おたくの銀行はつぶさない。最後は国が何とかする」という、暗黙の「保証」のようなものだったのです。


タカシ 「そ、そんなに危ないんですか ?」


H 部長は黙ってうなずきました。そして、私に哀願するような目で言いました。H 部長 「転職するにしても、潰れてからでは足元を見られます。今なら、外資系の金融機関や、そう、あなたなら IT 関連の企業にだって、それほどのハンデを負うことなく転職できるはずです」


私はそのとき何を考えていたのでしょうか。実は今でも明確に覚えています。入社式での頭取の訓示でした。


「みなさんは、歴史ある○○銀行に入行された数少ないエリートなのです。常にそういう意識を持って、日本の、いや世界の産業界をリードする人材に育ってください ……」


今まさに、数千人のエリート達 ( 実際には「エリート意識を持った、普通の人達」と言うべきでしょうか ) を乗せた巨大な船が沈もうとしているのです。


H 部長 「できれば全員を助けたいのですよ。でも、それは現実的にできそうにありません。ならば、少なくとも自分が目をかけた人材だけは何とか …… 助けたいのです。こうなったのも、われわれ幹部がだらしなかったから。行員のみなさんに責任はありません ……」


私は H 部長に対して、何か哀れみのようなものを感じました。


タカシ 「部長 ! 元気出してくださいよ。まだ、そうなるって決まったわけじゃないんですから。大丈夫ですよ、大丈夫。たとえそうなったとしても、それはそれでめったにない経験じゃないですか。お気遣いは感謝しますけど、私は辞めませんよ。転職なんて、いつだってできるし ……」


H 部長 「タカシさんはそう言うと思ってましたよ。でも、少し考えてみてくださいよ、ね ……」


タカシ 「そんなことより、部長こそ転職された方がいいんじゃないですか ? 外資の銀行になら、それなりのポストで行けるんじゃ ……」


私は、半ば冗談のつもりで言ったのですが、部長の反応は真剣そのものでした。


H 部長 「私はね …… 私は最後の最後まで見届けます。いや、見届けなくちゃならない …… 『責任』をとらないといけませんから ……」


それから 3 週間ほどの間、それまでとはうって変わったような激務が待っていました。銀行の信用不安は頂点に達し、顧客から取引の解約が殺到したのです。潰れてからでは遅いので、今のうちに取れるもんは取っておこうということです。私は同僚数名と、契約書の書替作業に忙殺されました。居酒屋での夜以来、部長との話は片時も頭から離れませんでしたが、私は仕事を無理にでも忙しくして、あまり考えないようにしていました。


そんなある日、時期はずれの人事異動が発令されました。当時は、50 歳に近い年輩社員を関連会社に出向させる人事政策が積極的に進められていましたから、私は「また今日もだれかが出向させられるんだな ……」ぐらいにしか考えていませんでした。


しばらくして、同僚のみんなが私の方を見て大騒ぎしているのに気付きました。


「タカシ、タカシったら ! お前の名前が出てるぞ !」


− ○月X日付 人事異動 − 

以下の人事異動を発令する。 

総合企画部 企画部付  総合職 2 級 奈良タカシ ( マーケット部 スワップ班 )


− ○月X日付 人事異動 − 

以下の人事異動 ( 出向 ) を発令する。

 

 

アメリカン・トラスト銀行 ( 仮名 ) へ出向  総合職 2 級 奈良タカシ ( 総合企画部 企画部付 )


それは異例の人事でした。マーケット部から総合企画部へ異動し、同日付でアメリカン・トラスト銀行 ( 仮名 ) への出向を命ぜられたのです。 


上司の課長は、「留学の代わりだよ。半年ぐらいで戻れるよ。しっかり勉強してきな !」と言っていました。周囲のみんなも同じような解釈をしていました。でも、私は素直に納得できずにいたのです。


「どうして総企 ( 総合企画部 ) 付で出向するんだろう …… こりゃ、H 部長の仕業だよな ……」


人事異動が出て数日後、私の銀行とアメリカン・トラスト銀行の業務提携が発表されました。発表自体は「業務提携」でしたが、実態はアメリカン・トラスト銀行による買収のような内容でした。その発表以来、銀行の信用不安は落ち着きを見せました。大手の外資銀行が後ろ盾になったのですから、そう簡単には潰れないだろうと判断されたわけです。


アメリカン・トラスト銀行には、ちょうど半年ぐらい出向しました。所属はマーケット部門だったので、前の仕事が活かせると喜んでいたものの、実態は、元の銀行との連絡係のような雑務をやらされていました。ま、言葉は悪いですが、「人質」のようなもんですね。


仕事自体はあまり面白くありませんでしたが、外資系企業であるアメリカン・トラスト銀行で得た経験は、私にとってかけがえのないものとなりました。学閥にとらわれない実力主義、迅速な意思決定、客観的な評価制度 …… それらの全ては未知のものでした。出向して 3 ヶ月が経過する頃には、私は外資系企業への転職活動を開始していました。結局のところ、H 部長の「作戦」に、見事にはまってしまったことになります。


出向から戻って 1 ヵ月後、私は銀行に辞表を提出しました。私は、何はさておき、H 部長にお別れの挨拶に行きました。


H 部長 「とうとう決めてくれましたか …… ありがとう。そして …… 頑張ってください」


退職の挨拶に行って、「ありがとう」と言われるのも複雑な心境ですがね ……


私の退職と同じ日、役員に対する人事異動の発令が出ていました。


− ○月X日付 役員異動 − 

以下の役員異動を内示する ( 正式決定は、本年株主総会にて行う )。 

常務取締役 経理 ・ 総合企画担当  H ○○ ( 取締役 総合企画部長 )


私が退職して半年ほど経過したある日のこと。その日はこの冬一番の寒さを記録し、都心にも雪が舞っていました。


「○○銀行破綻 ! 過去数期にわたり粉飾決算の疑いがあるため、会長○○、頭取△△、常務 H ほか数名逮捕 !」


それは、アメリカン ・ トラスト銀行から提携解消を告げられた 1 週間後のことでした。


結局、会長と頭取以外は釈放されました。H 氏は法的には罰せられることはなかったのですが、二度と銀行に戻ることはありませんでした。


私は、当時所属していた外資系コンサルティング会社の経営陣に対して、何とか H 氏を迎え入れることはできないかという相談を持ちかけました。しかし不起訴とはなったものの、H 氏を迎えることによるイメージダウンをおそれた経営陣は、H 氏の招聘にゴーサインを出しませんでした。それ以上に、H 氏自身から「そういうことはできない」と固辞されていたので、私にはこれ以上、どうすることもできなかったのですが ……


あれから 6 年後、2004 年のある日。その日の寒さも厳しく、天気予報では、午後から雪が降るとのことでした。そして、新聞の訃報欄に以下の記事が、ひっそりと出ていました。


「元○○銀行〈現△△銀行〉常務の H 氏が肺炎のため死去、53 歳」


私を外資系企業に導いてくれた、つまり私の「今」を作り上げてくれた H 部長は、不遇のうちのその生涯を閉じました。 53 歳、若すぎる死。しかし、私にとって唯一の「上司」である H 氏は、その強烈な思い出とともに、私の中に生き続けています。


H 部長、いろいろとお世話になり、ありがとうございました。ゆっくり休んでください。あ、そうそう、またあの居酒屋に連れて行ってくださいね。楽しみにしています。では …… タカシ

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この記事の筆者

奈良タカシ

1968年7月 奈良県生まれ。

大学卒業後、某大手銀行に入行したものの、「愛想が悪く、顔がこわい」という理由から、お客様と接する仕事に就かせてもらえず、銀行システム部門のエンジニアとして社会人生活スタート。その後、マーケット部門に異動。金利デリバティブのトレーダーとして、外資系銀行への出向も経験。銀行の海外撤退に伴い退職し、外資系コンサルティング会社に入社。10年前に同業のライバル企業に転職し、現在に至る ( 外資系2社目 )。肩書きは、パートナー(役員クラス)。 昨年、うつ病にて半年の休職に至るも、奇跡の復活を遂げる。

みなさん、こんにちは ! 奈良タカシです。あさ出版より『外資流 ! 「タカシの外資系物語」』という本が出版されています。
出版のお話をいただいた当初は、ダイジョブのコラムを編集して掲載すればいいんだろう ・・・ などと安易に考えていたのですが、編集のご担当がそりゃもう厳しい方でして、「半分以上は書き下ろしじゃ ! 」なんて条件が出されたものですから、ヒィヒィ泣きながら(T-T)執筆していました。
結果的には、半分が書き下ろし、すでにコラムとして発表している残りの分についても、発表後にいただいた意見や質問を踏まえ、大幅に加筆・修正しています。 ま、そんな苦労 ( ? ) の甲斐あって、外資系企業に対する自分の考え方を体系化できたと満足しています。

書店にてお手にとっていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
奈良タカシ

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