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第6回 ペルーとはどういう国?

今回はペルーについての概要と、私が赴任していた当時の印象を書いてみたいと思います。

国名:

ペルー共和国、通常ペルー(スペイン語:Peru)

首都:

リマ(Lima)

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歴史と政治:

ペルーの歴史と言えばインカ帝国が有名で永く栄えていたように思われていますが、インカ以前に地域と年代により幾つもの文化がありました。主な文化は北部アンデス山岳地帯に、紀元前千年頃チャビン(Chavin)文化の出現に始まり、一方南部アンデス高原地帯には、古代チアワナコ(Tihuanaco)文化が栄えました。

インカは、11世紀末に突如として南部に台頭して、12世紀初めには、クスコを首都として、現在の全エクアドル、コロンビアの一部、ペルー、ボリビア、チリとアルゼンチンの一部を含む強大なインカ帝国を形成しました。1532年スペイン人フランシスコ・ピサロ (Francisco Pizarro)の攻撃を受けたアタワルパ王は捕えられたのち処刑され約400年にわたって繁栄したインカ帝国は滅亡しました。

インカを征服したスペイン人により、16世紀から19世紀初めまでペルーは植民地としてスペイン副王の支配下にあり、その圧政に苦しみました。1981年南米各地に独立運動が起こり、南米開放の指導者アルゼンチン人のサン・マルティン(San Martin)将軍により、スペイン軍を破ってペルーは独立しました。その後、共和制をしき、ペルー共和国として民主、軍政など政権の交代を繰り返しながら現在に至っています。

1980年頃から反政府左翼ゲリラの活動が活発になりました。センデロ・ルミノソとトゥパク・アマル革命運動(MRTA)が反政府運動の主流であります。これら左翼ゲリラの活動により数万人を超える犠牲者が出たと言われています。

1990年に誕生したフジモリ政権は治安回復に取り組み、左翼ゲリラの最高責任者を逮捕するなど治安回復に効果を上げました。経済政策にも特筆すべき成果を上げていたのですが、側近の不祥事を受け、2000年11月日本において辞意を表明し、ペルーに帰国せずそのまま日本に留まりました。(現在は、チリ経由でペルーに帰国しています)

2001年11月、トレド政権が発足しましたが、経済政策は成果が上らず、テロ活動も復活し治安は悪化しました。2006年6月中道左派のアラン・ガルシアが大統領になり、現在は落ち着いています。

経済:

産業の中心は銅、亜鉛、銀、金などの鉱業と、1960年代には世界一の漁獲量を誇った水産業です。日本にはコーヒーも輸出しています。石油も産出していますが規模、ロケーションともに悪く到底自立出来るものではありません。慢性的に貿易赤字と失業率が高く、貧困層が多いという恒常的な問題が続いているようです。

国民/民族:

人口は約2700万人。先住民のインディオが約40%、インディオと白人の混血(メスティーソ)約45%、ヨーロッパ系約10%、その他がアフリカ・アジア系約5%です。日本人の移民については別項で述べることにします。

差別については、表面上は無いように思えましたが、白人中心の一握りの人達に富が偏っており経済的に生活面で大きな格差が存在しています。地方には仕事が無く、リマに行けば何とかなるのではないか?とリマに移住する人が後を立ちません。リマの人口は700万人、隣のカヤオ(ペルー一の港都市)と併せて1000万人以上とリマ周辺に一極集中しています。

治安:

上述「歴史」の項で書きましたが、ゲリラ活動が盛んだった頃は非常に危険でしたが、昨今は比較的安定していて観光客も随分増えているようです。しかし、外国人は昼夜を問わず1人で旧市街(セントロ、CENTRO)などを歩かない方がいいでしょう。

この項で見逃すことができない出来事は、1996年12月に起きたアマル革命運動(MRTA)による日本大使公邸占拠事件です。日本大使公邸の中庭でペルー要人、各国大使、在留日本人併せて約600人以上を招待し、天皇誕生日の祝賀パーティー開催中にMRTAの襲撃を受けた事件です。女性や老人、子供などは早期に開放され、その後も継続的に人質は開放されましたが、72名(内、日本人は24名)の人質は約120日間拘束の後、フジモリ大統領の指揮の下、周到に準備されたペルー軍特殊部隊の救出作戦により救出されました。犠牲者は人質1名と軍部隊2名計3名でした。

世が世なら、私も人質になっていたところです。日本人の人質の中には私と同じ時期に駐在をしていた知人が3人いました。私はリマではこの公邸のすぐ近くに住んでいましたので、公邸がテレビで映し出される度に当時を思い出しました。正月と天皇誕生日(当時は4月29日)のパ-ティ-や、大使と駐在員の集まりで訪れたことがある立派な公邸が、この事件の後取り壊されてしまったのは残念でなりません。

サ-ビス:

日本のようにはいきませんが、概ね良好でした。特に旅行斡旋業は日系のしっかりした会社が数社あり、出張をするにしても十分な準備が出来るので、安心して出発できました。レストラン、商店、銀行も良かったです。  

気質・商習慣:

インディオ系が多いからか全体的に大人しい印象です。前出のベネズエラと対照的です。商取引上では文章主義で取引履行上大きな問題は無いのですが、支払い条件が守られずに遅延することがしばしばあり、督促に時間を取られました。

この項に当てはまるかどうかわかりませんが、空港でチェックアウトをして出て行くと、若い人達が荷物を車まで運ぼうとうるさく言い寄ってきました。また、スーパーマーケット等の駐車場でも車を止めると、子供達が見守ってあげようと寄って来ます。車に傷を付けられるよりは安いものと必ず頼みました。

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スポ-ツ:

人気があるのはサッカーと女子バレーボールでしょう。サッカーは強豪ひしめく南米ですのでこのところW杯に出場出来ていませんが、強豪の1つです。女子バレーボールは世界のトップレベルのチームです。
実は、日本人監督が無名であったペルーのバレーボールチームを世界のトップレベルまで引き上げ、1968年メキシコ五輪では4位入賞へと導いたのです。元バレ-ボ-ル全日本選手であった加藤明さんです。1965年、松平康隆さんを通じてペルーから監督の要請がありこれを引き受けられました。当初はスポーツができるような裕福な家庭の子女を集めて指導しましたが、彼女達は精神的に弱く進歩が見られませんでした。困った加藤さんは田舎を回って運動能力がありそうな子供を探し、呼び寄せて指導をされました。彼女達はハングリー精神が強く、加藤さんの指導は実を結びどんどん強くなっていったのです。

移民と日系人:

日本からペルーへの集団移民は約110年前の明治32(1899)年、“佐倉丸”で790名が渡ったのが最初です。これは対南米では一番早く、ブラジルはその約10年後でした。広大な農耕地が与えられると希望を胸にやって来た移民達を待ち受けていた現実は、それは酷いものでした。農耕地の支配人の下、厳しい労働、環境衛生の劣悪さはまるで奴隷さながらでした。疾病で亡くなった人が多く、逃亡したがリマにたどり着く前にに亡くなった人もいました。やっとの思いでリマに逃れた人達は、元手が少なくても開業出来る床屋、クリーニング屋、花屋等を始めました。

現在日系人の数は8万人と言われていますが、この数字は30年前から変わっておらず、混血の日系人がカウントされていないこともあり、実際はそれよりだいぶ多いでしょう。 日系移民の出身地は、沖縄県が一番多く、熊本県、鹿児島県、広島県、福島県等多くの地域です。日系人の中には、企業経営、弁護士等々の知識階級に進出し、それぞれの分野で指導者として活躍している人達もいますが、下層階級で貧しい人達も数多くいます。 日系人は4世5世が誕生してもうペルー人に同化していますが、2世中心に現代の日本人が失いかけている日本らしい部分を多く残していることが伺えます。


さて、次回はペルーの生活ついてお話したいと思います。



2008年7月
高端正直

 
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